王家の谷、近つ飛鳥の古墳群

七期・古代史研究所の皆さんと南河内郡太子町にある天皇の御陵などを
廻ってきました。今日は下村さんも参加して5人です。
 井狩さんは宝塚から車で来まして藤井寺の榎本さんを拾い、私は軽四の
愛車で狭山の下村さんと羽曳野の河村さんを拾って「近つ飛鳥博物館」に
午前10時に集合する事にしました。

 
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 ここは安藤忠雄さんの設計で近くには小さい古墳群「風土記の丘」があります。
 前回このメンバーで聖徳太子の叡福寺に行った時、ここに立ち寄りましたら
月曜日で休館日。残念な事でしたので今回は特別にメニューに加えました。
 館内の常設展を見た後、特別展ふたつの飛鳥の終末期古墳−河内飛鳥と
大和飛鳥
−」
もじっくり見学しました。
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 【開催趣旨】には・・・『日 本列島では、3世紀中頃以降、前方後円墳を築造する
時代が300年以上にわたって続きます。6世紀の終わり頃になると前方後円墳は
姿を消しますが、以後8 世紀初め頃までなお古墳は造られ続けます。この時期は
古墳時代終末期とされ、この間に造られた古墳は終末期古墳と呼ばれています。
  前方後円墳築造停止後の古墳の形は円墳や方墳が主流になり、やがて
大王墓では八角形墳が採用されるようになります。古墳の埋葬施設である
横穴式石室には、 加工した石材が用いられるようになり、さらに横口式石槨という
新たな埋葬施設も現れます。このような終末期古墳の分布の中心は、「河内飛鳥」と
「大和飛 鳥」にあるのです。
  終末期古墳が築造された時代は、推古朝から平城遷都へと至る、まさに
律令国家成立の動きが加速する時期に相当します。終末期古墳が「河内飛鳥」と
「大和飛 鳥」の地に集中して存在するのは、ふたつの地域が律令国家形成に
大きな役割を果たしていたからなのでしょう。また、終末期古墳の墓制には、
そうした時代背 景が強く反映していると考えられます。このたびの展示では、
河内飛鳥と大和飛鳥の地に集中する終末期古墳に焦点をあて、それぞれの
特徴や多様性を探ってみ たいと思います。』
とあります。まさに私たちが古代史を
研究しているテーマにぴったりの特別展です。 約2時間かけて見て廻りました。
気がつくともう12時です。館内最大の展示物「鹿谷寺(ろくたんじ)の十三塔」の
前で記念撮影。。 
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 私はよく登る「二上山」中腹にある廃寺のあとにある塔です。固まった火山灰は
細工がしやすいので、山中で十三塔を掘り進めたといいます。
 この博物館の外には「近つ飛鳥風土記の丘」があります。ちょうど
回廊ルートには梅の花が咲いていて季節はずれの陽気と共にほっこりとした
気分を味わいました。 
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でも・・・「好事魔多し」。。杉林の花粉が「黄色い煙」となって風に流されている
ではありませんか。。 
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 ここの杉の花が風に揺すられて花粉が飛ぶ様子を目(ま)の当たりにした
榎本さん。。。
「アカン、、おれ鼻がむずむずする」と言ったかと思うと
「ヘックショイーン」
ティッシュで鼻をかんでいました。

ひとまずこの周辺から退散して昼食に行く事にしました。私の車はこの
駐車場に置いておき5人で井狩さんの車に乗り込みました。以前行った
レストランに行きますと駐車場が満席。お昼時ですから評判のいいこの店は
よく一杯になります。
仕方なしに170号線(外環)沿いの「洋麺屋 五右衛門」に行きました。 
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 レストランの中でも「クシュンクシュン」と榎本さん。
下村さんが「この苦しみを川柳で表したらどうや」「それどろこやおまへん・・(+_+)」と
榎本さん。。みんなは笑っておりますが同情しきり。 「大丈夫か?」

午後はいよいよ天皇陵、古墳廻り。。
私が以前下見しておいたコースで「敏達陵」⇒「推古陵」・
「二子塚古墳」⇒「科長神社と小野妹子墓」⇒
「孝徳陵」⇒「用明陵」
とまわりました。
まず、、敏達陵 
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 大阪芸術大学の裏にあります。
誰かさんが生垣を越えようとした時、
「イテッ」  どうやら荊の針に刺さったようです。
見ますと血が少し出ています。クシャミと出血。。踏んだり蹴ったりや、、と
嘆くこと嘆くこと。。

次に「推古陵・二子塚古墳
推古天皇は女帝です。小高い丘の上に祀られておられます。
近くに二子塚古墳、これが本当の推古陵だという説もあります。
この古墳の近くは農家の畑。5人は春を見つけました。
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 オオイヌノフグリです。真っ先に春の土手に可憐な花をつけます。
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エンドウです。スナックエンドウ、ウスイエンドウなどシャキシャキした
歯ざわりがなんともいえません。。
 
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 小麦です。今時麦類を植える農家はありませんが、久しぶりに
麦を見ました。「むかしは麦踏をしたねぇ」「麦踏みは葉がもう少し小さい時に
するんや。寒くて霜柱が立ちそれを押さえつけるために踏むんや」
「黄色くなった麦藁はストローや麦藁細工にしたねぇ」「麦藁帽子は夏の
必須アイテムやったなぁ」

次は科長神社小野妹子墓
「科長」は「しなが」と読みます。聖徳太子の御陵は「磯長」と書いて
「しなが」と読みます。 
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「孝徳陵」へは近くの道の駅に車を置いておき、500m歩いて行ってきました。
ここへ行く道は「竹内街道」といって古代の奈良・飛鳥に抜ける1級国道として有名です。むかしは難波宮や堺港から唐天竺(からてんじく)の珍しい物品が通ったことでしょう。
この太子町に残っている街道には少しだけ古い家並みが残っています。 
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 孝徳陵は高いところに鎮座ましましていました。

最後は・・・用明陵です。 
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 天気は少し曇りになってきています。明日は雨だと言うことで今日実施して
よかったと思います。ずいぶん日が長くなってきて、春の訪れを感じます。
もうこの時点で午後4時になってきました。
「コーヒーでも飲みに行こうか?」
と、いつも行くあのレストランに行きました。お昼と違ってずいぶんガラガラです。
「ヘックショイン」とまだクシャミが出ているようで水洟をかんでいます。
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 次回はいつどこに行こうか、、と相談したり、外国旅行の話をしたりして
あっという間に1時間がすぎました。

井狩さんはこれから宝塚に帰ります。約1時間もかかるそうですよ。
私は河村さん下村さんをお届けして6時前に帰ってきました。(^-^)

帰りますと夏ちゃんがぐったりとしています。
「どうしたん」
「朝、ゲロッピーしたんだって。今日は保育園はお休みしたよ」
ノロウィールス出なければいいのですが。風邪かも知れません。